夢を見つけたいらしい

 今年の年明け早々京音1回生(現・2回生)の一部のメンバーで河原町ラウンドワンに集まったときに、新年の抱負を言い合おうということになった。そこはやはり音ゲーサークルということで、まわりの多くは例えば「オンゲキのレート16.00」など、具体的な目標を言っていったなか、自分だけが「夢を見つける」と答えて終わった。

 

 そもそも音ゲーをやる上で大それた目標も普段から持っていないから、趣味でやってるといっても適当適当で、たまにちょっとスコアが伸びたらいい気になっているぐらいの自分にとって、こういうことは率直に言ってやりづらいのだ。だからその場ではあんな感じでちょっとひねくれたことを言ったが、夢がないってのは自分にとっては割と耳の痛い問題だ。それにその目標だが、今年も残すところあと2ヶ月で未だに達成されてない。
 まあこんな目標がすぐ達成されるわけもない。やり方が分からないんだから。逆にやり方が分かれば大抵のことは出来るってのは人生経験でなんとなくわかっていた。音ゲーの地力もそうやって上げてきたし、受験だってそれで切り抜けてきた。とにかく頭の中に「これをすれば外れがない」というやり方を叩きこむこと、これ一つだけで身を立ててきた。
 だからなんにせよ、すぐに正解を欲しがってしまう。これが自分の悪い癖だという自覚はある。世の中の諸問題には正解がないみたいに言われても、そんな難しいこと言わないではやく正解をくれよとねだる気しか起こらない。確かなやり方をその通りに実行していくことだけで生きてきた人間には、そういう問題が存在することを受け入れること自体が既に辛いものだと思った。

 

 そういえば最近、デレステを始めた。それは最初にその存在を知った時から気になったキャラがいてのことだが、ようやく重い腰を上げてそのキャラをひとまず追ってみるためにゲームをインストールした。少女の名は「夢見りあむ」。フェス限SSRのセレクトチケットのせいで開始そうそうこいつに5000円を奪われた。
 そしてそのゲームを進めてこの夢見りあむというキャラクターを追っているうちに、一つ気付いたことがあった。なんかこいつ、自分とそっくりだな、と……いやそれはやめてくれ。こんなのと俺が?冗談でもきつい。自分はそう思ったわけだが、それは彼女の一挙手一投足に同族嫌悪らしき何かを抱いてのものだった。
 夢見りあむの朝は早い。朝の12時か13時に目を覚まし、SNSを開いてエゴサする。一方の自分はだいたい朝の14時とかそこらで目を覚ましてPixivでフォローしている絵師の新規絵を漁る。一致しているし、むしろ起床時間はこちらの負けである。餃子以外の自炊をせずに牛丼屋に毎週「結婚しよう!」と熱愛アピールをかますりあむと、そこまでではないけれど自宅での飯は米に惣菜の付け足しで適当に済ませて深夜のザコヤを特上の餌にする自分。これも大して差が無い。普段からすぐに弱音を吐いて、ずっとメンタルブレイク拗らせる癖に推しのアイドルの歌う現場では水を得た魚のように元気になるりあむ。見えない自分の将来を前に常に鬱屈とした感情を抱き、幼児退行を繰り返しておきながら酒を飲みながら音ゲーをする時は嘘のように元気な自分。そこにはなんの違いもないように思えた。
 血なまぐさい努力なんかなくても褒められたいし、頑張ったらその分いっぱいご褒美が欲しい。とにかく気軽に軽率に甘やかしてほしい。ちやほやしてほしい。自分が知らず知らずのうちに持ってた本音がこの女を見れば見るほどどんどん露わになっていく。極め付きにあったもの。それは「失敗する自分に耐えられないから挑戦が苦手」な自分の姿と、「夢を見たいらしい」自分の姿。この2つがこの夢見りあむという醜悪な写し鏡に映っていたのである。
 ―――違う。夢見りあむは醜悪ではない、醜悪なのはそれを写し鏡に見立てたお前自身だ―――そんなことは知っている。だがそうとでも思わないとやっていられない、辛い気持ちがこの女の前にこみ上げる。されども、結局はこれが現実なのだ。

 

 話を戻そう。ちょっと前にりあむが「夢を見たいらしい」ということを書いたので夢の話に時を戻す。夢を見つけることができない。というより、そのやり方が分からない。そうこうしているうちに時は11月、とある飲酒マンの歌によればなんでもないけど酒が飲める季節だ。だが自分もこのことについて何も努力しなかったわけではないとあえてここで書きたい。色々考えた。色々考えた結果、どうやら「自分で夢を見に行く必要はない」ということの方が少なくとも自分にとっては正しいようだと気づいた。
 今年春にブレークしたウマ娘で競馬の世界を知った。そこでは観客が自身の応援する馬、馬券を勝った馬に「夢を乗せる」そうだ。レースは馬と騎手の力量、当日の馬場環境、そして何よりその場の運が決めるもの。負けるべくして負ける馬がいても、そこに必然の勝利はない。観客ならなおさら、予想をするということはあっても結果を知ることなどない。馬券で元などそうそう取れない。だからこそ、「夢を乗せる」ことが出来るのだろう。
 それでふと気づいたことがあった。自分はどこかで、「夢を乗せる」ことを既にやってきたんじゃないか、と。そして、夢見りあむの例に戻れば、彼女は地下アイドルの現場で頑張っているアイドルを見て「尊い」と言って、自分以外のアイドルに「夢を乗せる」ことをしている。彼女がどこまでも他力本願なのはそれこそが自らを救う道だと心得てのことだと思えてならない。
 そしたらそれは自分もおんなじなんじゃないかと思う。そしてそれはきっと、オタクとして推しを愛でるところに現れてくるんじゃないかと感じる。丸山彩の不屈の精神に心を打たれたり、朝比奈まふゆの悲しい自壊の物語に自分の半生と近いものを感じたり、自らの心にどこまでも忠実な桜ねねの生き様に憧れたり、そして、やみきった末に自らが心揺れる先へと必死の情熱を送る夢見りあむと自らを同一視したりしてきたことには、結局そういう因果があったというわけなのだと、考えているうちに気が付いたのである。
 昔の人間には科学による光明がなかった。暗闇は深く、そこにはただ無限の未知が広がるのみだった。そして繰り返される自然災害や疫病の流行の度に、大勢の人々が死に、困窮した。だが、人間が何も分からないからこそ、人間が弱いからこそ、人々は自らの実存を確かにすることができた。彼らが歩むべき道は自ずから定まっていたのだ。自分が生きている事実への感謝を表すこと、神を信じる心こそが己を救うと信じること、来世の絶対を信じ善行を積むこと―――それら全てが暗闇の時代を生きた人々の「夢」だった、そう考えてもよさそうなのだ。
 ならば、今は?私達の手元には科学による光がある。先人の努力により、様々なことがわかっている。津波や洪水を巨大な堤防で防ぎ止め、病気が流行れば治療薬やワクチンを開発して流行を抑制することだってできる。人間は強大な力を手に入れた。しかしそのせいで、自らがしるべとすべきものが分からなくなり、誰しもが軽々しくいのちを見るようになってしまった。明るすぎる光もまた、全てを見えなくしてしまうのだ。
 結局そうやって人間が恐ろしい災害に対抗する術を得たって、個々の人間は弱いままなのだ。弱いからこそさまよう。正解のない自らの人生の処し方の答えを求めて、ずっと盲目のままでいる。とても一生物としてのあるべき姿ではない。しかし、だからといって昔のような生活に戻ればいいのかといわれれば、それは違う。そんなことをすればすぐ状況はポルポト政権下のカンボジアだ。我々は熱力学第二法則による強力な、そして凶悪な呪縛からけっして逃れ得ないのだ。
 だから諦めて、この現実を受け入れるしかない。しかしあまりに肥大化し過ぎた現実には酸いも甘いも足り過ぎるのだ。だからこそ、現実に目を覆い、何某かに「夢を乗せる」、そういう弱弱しいやり方が、なんとも人間らしく映るのだ。


 だから表題の「夢を見つけたいらしい」自分のそのことについて、これ以上はもう何も考えないことにした。だってこれ以上考えたって疲れるし、結局こういう現状が、永遠に答えを頂戴し続ける自分のやり方に何よりもふさわしいのだ。そして、こういうことを書いているうちに、ああ、オタクって本当に弱い生き物だなあって思ったけど、それも結局ただただ自分が弱いだけだって、書きながら思ったのだった。

 

ものり